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第117回「帯が来ない」(2014.6)

教授 上野 行一

教授 上野 行一

  帯が来ない。着物の帯のことではない。わたしの新刊本の帯が来ないのだ。

  このままでは出版が遅れてしまう。最悪、わたしが自分で書くしかない。「もう一日、待ちましょう」電話の向こうの編集者の声は疲れ切っていた。

  事の起こりは、あるシンポジウムで脳科学者の茂木健一郎と同席したことだった。ちょうど本の校正が大詰めにかかっていた頃で、編集者がこれ幸いと茂木に帯を依頼したことが苦難の始まりだった。

  噂に聞く通り、茂木は常人ではない。ステージの上で私の隣に座った茂木はシンポジウムのあいだ中、スマホをいじっていた。LINEなのかFBなのか、使わない私にはよくわからないが、猛烈な速さでメールを読み、書き込んでいる。もちろんシンポジウムの議事は進行中だ。

  これだけだと、講義に退屈した学生のすることと変わらない。ところがやはり茂木は違った。時折、司会が茂木に発言を促すのだが、一瞬うろたえはするものの、すぐに澱みなく的確な応答をする。スマホをいじりながらも脳のどこかが、シンポジウムの話を受けて働いているからに違いない。脳がひとつの行為に埋没していないのだ。話の流れをつかみ、自分の考えをまとめるだけで精一杯のわたしなど、うらやましい限りだった。脳を科学する研究者の脳は、やはり常人とは違うのかもしれない、と思った出来事だった。

  帯の件はどうなったかというと、「スミマセン、忘れてました!すぐ送ります」と、督促のメールに返信があり、一時間も経たないうちに「アートは、身近で、深い。あなたの脳と美術を「お友だち」にする、すばらしい入門書」*と送られてきた。

お見事、というほかない。

 

*上野行一『五感をひらく10のレッスン―大人が愉しむアート鑑賞-』美術出版社 2014



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