第139回 「千寿ことはじめ」(2015.6)
2015/06/25
行(ゆく)春や鳥啼(なき)魚の目は泪(なみだ)(松尾芭蕉)
この句は、松尾芭蕉が門人、曽(そ)良(ら)を伴ってはるばる東北・北陸地方へと旅立つにあたって詠んだ「矢立初め」の句である。門人たちと別れを惜しむ芭蕉の姿がありありと蘇ってくる。句が詠まれたのは、日光街道の起点である千寿(せんじゅ)(現在の千住)において、時は元禄2年(1689年)3月27日のことであった。三百年以上も前の句だ。隅田川に架けられた千住大橋(徳川家康が架橋)のたもとにある素戔嗚(すさのお)神社に句碑があるという。
千寿というところより船をあがれば
前途三千里のおもひ胸にふさがりて
幻のちまたに離別の
なみだをそそぐ(奥の細道)
私はこの度、遠い西国を離れて、千住の地にやってきた。2015年3月27日のことである(芭蕉旅立ちの年齢よりかなり年上。驚!)。今年の弥生はことのほか寒かった。別れを惜しんでくれる人たちもいた。おそらく、もう一生会えない人もいるのではないか。
新天地、千住に来て、はや2か月が過ぎた。新しい出会い、親切、ありがたい。私生活に関して言えば、いまだに段ボールに囲まれながら、遅れに遅れた原稿と格闘している。専門は西洋教育史であるが、日本の教育史についても書いてくれないかと依頼された。ああ、断るべきだった。後輩の依頼で、つい受けてしまった。勉強になる、という思いもあった。甘かった。後悔先に立たず、やるしかない。
ななめ読みしかしていなかったと反省して、網野善彦氏の本を読む。『「日本」とは何か』(講談社学術文庫、原本2000年刊行、2009年版)を読み、衝撃を受けた。「日本」という国号、国の名前がいつどのように定まったのか、日本人として当然知っておくべきことなのに、知らなかった。
研究者の間では多少の意見の相違はあれ、大筋では一致している。大方の見解は七世紀末、689年に施行された飛鳥(あすか)浄(きよ)御原令(みはらりょう)とするが、それと異なる見解にしても七世紀半ばを遡らず、八世紀初頭を下らない。「日本」はこのときはじめて地球上に現れたのであり、それ以前には日本も日本人も存在しない。…702年、中国大陸に渡ったヤマトの使者は周の則天武后(国名を唐から周に変えた)に対し、それまでの「倭国」に変えて、はじめて「日本国」の使者と言い、国名の変更を明言したのである。(網野善彦『「日本」とは何か』、20~21頁)
自分の国について知らねば。西洋関連の本だけでもうず高く、という言い訳はやめにしよう。現在、日本の子ども観について書いている。たとえば、「童(わらわ)」という言葉について。
古代中世において、男は15歳まで、そして女は13歳まで、「童(わらわ)」と呼ばれた。童と言っても、現代の「子ども」と同じ意味ではない。当時、成人に達した男子は烏帽子(えぼし)などのかぶりものを着用するのが一般的であったが、下人や従者など社会的に低く見られた者は、成人に達しても童形の髪型で通したという。つまり、「童とは社会的に一人前とは見なされない者」を意味していた(拙文)。
やれやれ、たくさん学ぶべきことがある。大童(おおわらわ)として、この地、千の寿(ことぶき)と言祝(ことほ)がれた
地にて、まず第一歩を踏み出すことにしよう。