第35回 「ありさんとお買い物ごっこ」(2011.6)
2011/06/06
以前、学生の教育実習の指導である幼稚園に参加したときのこと。
園児たちが、お店屋さんごっこをしていた。
ぞろぞろと先生の後についてお店屋さん(園庭に模擬的に作られた店)に移動するときであった。後ろの方にいた一人の園児が、先生に率いられた一団から離れしゃがみ込んだ。
園児たちの後からついてきた実習生(大学生)はその姿を捉えると、その園児の傍にしゃがみ込んだ。「みんなに遅れちゃうよ。さあ、行こう。」と促す。
しかし、彼(園児)は動こうとしない。そこに、先頭を歩いていた保育者が近づいてきた。保育者は、実習生(大学生)に先頭に行き、園児たちを率いることを指示すると、実習生と同じように彼(園児)のそばにしゃがみ込んだ。そして、彼に語りかけた。
「ありさんもどこに行くのかな。ありさんも買い物に行くんかな。何買うんだろうね。」「ぼく、お菓子買いに行く。」彼は、この言葉を残し、先に進んでいた園児たちに向かってかけだした。
実習生(大学生)の言葉に反応しなかった彼(園児)が、なぜ保育者の言葉に反応したのだろうか。先生だから言うことを聞き、大学生だから言うことを聞かなかったのではない。事実この活動の前には、大学生と自由に遊ぶ時間があった。しゃがみ込んだこの子も、大学生が「砂場で遊ぼう」と誘われると、大学生と砂場に行き楽しそうに遊んでいた。
実習生の「みんなに遅れちゃうよ。さあ、行こう。」という言葉と、保育者の「ありさんもどこかに行くのかな。ありさんも買い物に行くんかな。何買うんだろうね。」という言葉との違いを考えてた。
実習生の「みんなに遅れちゃうよ。」という言葉は、他の園児との比較でこの子の現状を捉え、彼の行動を語っている言葉である。「さあ、行こう。」は、彼に今の行動をやめて、みんなと同じ行動をするように促す言葉である。
それに対し、保育者の言葉は、彼の行動を説明するものでも、彼に行動を「促す」ものでもない。
「ありさんもどこかに行くのかな。」は、今彼(園児)の心を捉えているものを保育者が代弁しているものである。しかし、それは代弁をしただけではない。私もあなたと同じ興味があるということを同時に彼に伝えている。だから、「ありさんも買い物に行くんかな。何買うんだろうね。」は、彼に問いかける内容をもちながら、同時に保育者自身の自問自答であることを彼に伝えることになる。
自分が今興味を持った対象と同じ対象に対して興味を持っている人であることを認知したとき、同じ興味をもつ人の自問自答は、彼に「どうしてそういう答えを考えたのだろう」という思考を促したのではないだろうか。
保育者は、彼(園児)の視線の先を捉えていた。そして、今彼の中でどんな思いが生成されているかを瞬時に推測したのだろう。この保育者は、子どもには子どもの理(ことわり)があるという考えを、自らの行動原理としていることが推察される。その行動原理は、一度彼(園児)と同じ立場に立つことを要求する。その立場に立つとき、彼の心情をも共有する。だから、「さあ、行こう。」という指示は出ない。そんなことより先に、彼が発しているであろう問いを自らの問いとして生成する。その自問自答の中に、保育者は、もう一人「何をすべきかを知る」園児を存在させる。だから、この保育者の言葉は、彼にとって決して指示という情報を送ることにはならない。言い換えれば、彼は(園児)、保育者が存在させたもう一人「何をすべきかを知る」園児を自らで自らの中に呼び込んだのである。
相手の立場に立つことのない話は、こちら側の伝えたい内容を一方的に送るだけのものであり、それは、コミュニケーションではない。
このとき、「何しているの?」という言葉がけは、コミュニケーションを成立させるものとなったであろうか。先の保育者の言葉がけと同質のものではない。
なぜなら、「何しているの?」という言葉がけには、今彼がとっている行動を認めるということよりも、この場合、今しなければならない行動を暗に意識させようとする意図を含んでいる。今しなければならないことに対して、それをしないことの説明を暗に彼に求めるものである。
この保育者と幼児とのコミュニケーションは、人と人とのコミュニケーションの本来あるべき姿を教えてくれる。