第42回「伊能忠敬に足跡に学ぶ」(2011.8)
2011/08/23
伊能忠敬の名をご存じの人は多いことだろう。江戸時代後期に日本全国(沖縄は入っていない)を測って日本地図を作製した人である。私は前任校で毎年、中学生を引率して佐原(現千葉県香取市)の伊能忠敬旧宅・記念館を訪れてきた。記念館には、忠敬の業績紹介や忠敬が使った測量道具などが展示され、旧宅(国指定史跡)は江戸時代の商家の造りが見学できた。現地を訪れて、忠敬とその弟子たちの作成した地図の正確さに驚いたのはもちろんであるが、私は忠敬の生き方に興味・関心を持ち、現地を訪れるたびに、忠敬の生涯を記した展示物に見入ったものであった。
忠敬は、現在の千葉県九十九里町に生まれ、17歳で佐原の伊能家に婿養子に入った。佐原は、利根川流域にあって、江戸と関東・東北を結ぶ商業の町(河岸・川港)として栄えていた。伊能家は、その佐原でも指折りの商家・地主であり名主の家柄であった。婿入りした忠敬は、家業(酒造業・米穀販売・運送業等)に精を出し、傾きかけていた伊能家を立て直すとともに、飢饉のときには関西から売米を求めて窮民にこれを与え、近隣には安く売ったということでもよく知られている。
佐原はまた「一夜洪水の所」と言われたように、ひとたび利根川が氾濫すると田畑は水浸しとなった。洪水後に堤防を築き直し田畑の境界を確定する必要から、伊能家には代々の主が残した測量などに関する蔵書が数多くあった。忠敬は、家業の傍らそれらの書籍・記録をむさぼるように読んだ。また、近在の人々の集まる勉強会にも参加し、地理・歴史・天文学・数学などの知識を吸収した。そうしたなかで、忠敬の興味・関心は地球の大きさに向かい、地球の大きさを知りたい、測量してみたいという知的好奇心に取りつかれた。そこで、忠敬は49歳で家督を息子に譲り、50歳の時、江戸に出向いて幕府天文方の高橋至時に弟子入りし、西洋天文学、西洋数学、暦学などの勉学に没頭した。
その当時の日本近海には度々外国船が来航するようになり、幕府に交易を要求していた。幕府は、外国から蝦夷地(北海道)を守るために蝦夷地の正確な地図を必要としていた。一方、忠敬も地球の大きさを知る糸口としての子午線1度の正確な距離を知るためには、長い距離を測量することの必要性を感じていた。忠敬の師匠、高橋至時も自らの使命である暦づくりの必要性から忠敬同様の認識であった。至時・忠敬師弟の学問的関心と幕府の蝦夷地測量による正確な地図づくりの必要性が一致したのである。こうして、忠敬55歳の時に日本地図測量の旅が始まった。忠敬は1818年に73歳で亡くなったが、地図づくりは弟子たちによって続けられ、3年後に大日本沿海輿地全図(伊能図)が完成し、国家的事業を成し遂げた。幕府に提出された伊能図は、正確な日本地図として大正時代まで約100年間使われた。
忠敬の業績である科学的な日本地図の作製は、忠敬の学問的好奇心が原動力となって始まったと言える。「人生50年」と言われた時代に、学問への情熱に駆られて50歳で江戸へ出向き、19歳年下の高橋至時に弟子入りを懇願した忠敬、55歳にして蝦夷地の測量に出向き、71歳までの17年間、全国各地を測量し地図づくりに専念した忠敬、こうした忠敬の人生の軌跡に触れるたびに頭の下がる思いがする。学問に対する忠敬の姿勢、後半生を実測による地図づくりに傾注した忠敬の足跡から学ぶところは多く、子ども達にも学んでほしいと強く思う。