TEIKAジャーナル

第47回「子どもと上手にかかわれる先生」(2011.11)

2011/10/26

日々学生たちに授業をしながら、このようなテーマを成就できる学生を育てたいと願っています。現実的には、いろいろな壁にぶつかりながら試行錯誤の日々です。

先日、ある小学校で4年の算数の授業を参観したときのことです。あまりのある割り算の勉強をしています。

先生は、「まず、20の中に6がいくつ入っていますか」、「わかりますか」、「いいですか」、「3個は入っています」、「わかりましたか」、「4個だと20を超えますね」、「わかりましたか」、「次ですよ」・・・という調子で、子どもたちに説明しています。

リズムよく指導がなされ、子どもたちも静かに先生の計算式をノートに書いているのです。そして、この①「20÷6」の問題を説明した後、次の2問についても同様に説明していきました。②「67÷5」、③「145÷8」の計算問題です。

これらを説明した後のことです。M男が大きな声で、「先生は、『わかりましたか?』って20回ぐらい言ったよ。そんなに言わなくてもいいから、あまりの計算のし方を、わかるように教えてよ」と発言したのです。

教室中が先ほど以上に静まり返りました。先生は、そう言うM男の方を黙ってみていました。すると、M男は「自分一人でやってみると、できないかも・・」と、ポツリと話すのです。これを聞いた先生は、「じゃ、もう一回だけ説明するよ」と、先ほどの指導を同じように繰り返して説明していました。そして、また「わかりましたね」と念を押したのです。聞き入っていたM男は、鉛筆をくわえたまま静かにうなずきました。

M男の<先生、わかるように教えてよ>は、何を意味するのでしょうか。M男の次の言葉にあるように、自分で試して自分でわかりたいのではないでしょうか。

教師がある意味熱心に一方的に<教えること>の難しさを、M男が問いかけていると思います。教師が<わからせよう>としても、子どもはそれを受け容れることが困難になる場合があるように思います。そこに、<上手にしかも適切にかかわる>ことの大切さがあるように思います。

M男の気持ちを考えると、「この問題をまず自分でやってみましょう」という問いを先生に求めていたであろうと思います。そしてまた、「ぼくはこう考えたけど、せんせい、どう?」と話したかったのではないでしょうか。

教師と互いにかかわり合いながら学ぶことを喜びとするのが、子ども時代の勉強(学習)です。このM男の事例は、子どもとのあらゆる<かかわり方>に共通するものがあると思います。大学教員としての私自身にも言い聞かせながら、おおいに考えさせられたある小学校での授業参観のひとコマでした。

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