第50回「今という時代(とき)-2」(2011.12)
2011/11/25
「知識基盤社会」という言葉を聞いたことがあるだろうか。一般的に、知識が社会・経済の発展を駆動する基本的な要素となる社会を指す言葉であり、文部科学省が教育行政の根幹に据えている言葉である。それが3.11以降揺らいでしまった。我が国の制度設計そのもの、国家戦略そのものを抜本的に見直さざるを得ない事態に陥ってしまったのである。状況が見えていない人は何事もなかったかのように思考し生活しているのだけれど。
簡単におさらいをすると、文部科学省は21世紀を「知識基盤社会」(knowledge-based society)の時代であるととらえた。平成17年の中央審議会答申「新しい時代の義務教育を創造する」では、総論のなかで知識基盤社会を義務教育の目的・理念を考える前提として位置づけ、現在の新しい学習指導要領はその考えの元に改訂が進められたのである。
かつて社会学者のダニエル・ベルは、来るべき社会を「脱工業化社会(post industrial society)」と呼んだ。工業化社会においては、資本と労働が重要な要素であったが、新しい社会では、知識が社会における重要な要素として社会の中核をなすというのである。ドラッカーの「ポスト資本主義社会」も同様のことを語っている。知識基盤社会に求められる人材像をナレッジワーカー(知識労働者)と呼んだことは周知のとおり。
OECDも米国もこの考え方を支持し、今後の社会設計の根幹に「知識基盤社会」という理念を据えた。20世紀の工業化社会においては、均質の製品を大量生産する社会モデル(工業モデル)を下敷きに教育も設計されたが、21世紀においては脱工業化社会(知識基盤社会)をモデルにした教育を考えようと発想されたのである。*
それに我が国も同調したわけだが、3.11以降、来るべき社会は暗転し、第二の戦後と呼ばれる状況へと静かに移行している。我が国においては、知識基盤社会ではない来るべき社会を律する理念を早急に検討する必要がある。それは学者が机上で頭から捻りだすものではなく、復興支援の現場に携わる人たちの実感を通して語られるべきだろう。価値観、自己実現、求められる能力等あらゆることへの見直しをすること、失われたのは何か、見直されたことは何かの検証をすることが大切だ。そして一人ひとりがこの国でどう生きるかをそれぞれの立場から熟考することから始めなければならない。それこそがいま教育に求められている最大の役割である。*上野はこのことを教育の場から論じている。『文明と文化の視角』(佐々木晃彦/編)東海大学出版会、1999