TEIKAジャーナル

第51回「小学生の宿泊遠足での事-静岡県の手もみ茶の名人-」(2011.12)

2011/11/28

 かつて私が、小学校の教師をしていたころの話です。

 その小学校では、6年生で静岡地方へ一泊二日の宿泊遠足を実施していました。

 静岡についた一日目、フリータイムと称して、子どもたちの興味関心に合わせいくつかのコースに分かれて体験的学びが行われました。

 私は、手もみ茶の子どもたちの引率にあたりました。

 80才近い老人が、子ども達のために、手もみ茶の実演をしてくれたのです。この方は、無形文化財に認定された方でした。この方が自ら手もみ茶を作ることは、その当時、大変なことなのだったでしょう。この日も、この方が手もみ茶を作るということで、ある新聞社が写真を取りにきました。恐らく、小学生に見せるために、彼が手もみ茶を作ると聞き付けて、東京からどんな学校が来るのかということもあったのでしょう。

 彼は、子ども達を前に淡々と手もみ茶をつくって見せます。そして、「あなた達も、やってご覧。」と優しく子供達を誘います。子ども達の手もみは、お茶を粉々にしてしまいます。彼は、それを寄せ集め、「なかなか難しいだろう。」と手もみすると、不思議にお茶はピンと針のように尖るのです。名人芸です。

 その名人が、お茶を揉みながら、そばに居た私にこんな話をしてくれました。

 「先生、お茶の手もみも、先生の仕事と同じだよ。いいお茶、味わいのあるお茶を作るには、お茶とお茶を揉み合わせることが秘訣なんだよ。わしの手は、お茶に触れてはいないんだ、お茶とお茶とが触れ合って味わいをだすんだよ。」

 時間にすれば数秒でした。私と名人の話に気付いた子もいない程です。

 しかし、その話は、正に名人芸の神髄でした。

 手もみ茶であって、お茶に手を触れぬと言うのです。お茶同士が触れ合って、深く豊かな味わいを醸し出すと言うのです。

 その作業を見ていたとき、私の目は、彼の手がどのように動いているかということだけに囚われていました。

 しかし、彼には自分の手への意識はなかったのです。お茶とお茶とのことしか考えていなかったのです。

 子どもをお茶に例えたこの言葉は、教育の神髄でもあろうと思いました。

 道を極めた人というのは、他の道へも通ずるものを持てるものなのだと考えさせられました。

 手もみ茶を、子ども達のお土産として、少しずつ分けてくれました。「このお茶は、どこでも買えるというお茶じゃないんだよ。」と話ながら。そして、寂しそうな顔で、私にこう話してくれました。「先生、わしのお茶は、普通じゃもう飲めないんだよ。本当は、機械で作るんじゃなくて、手で揉むのがお茶は本当なんだけどね。」

 この人にとっては無形文化財であるより、自分のお茶を飲んでくれる人に最高のお茶を作ることが至福なのです。

 素晴らしい人に出会えたとき、何とも言えぬ豊かな気持ちが生まれます。そういう人の持っている自分の歩んで来た道に対する自信と誇り、本当のものを見つけ出せたことへの喜びといったものが、出会えた人間に伝えられるからでしょう。

 遠足でこういう人に会えるということは、子ども達にとってなんと幸せな事でしょう。

 遠足で、手もみ茶を一緒に作ってくれた老人は、子ども達にとって、そのときはお茶のことを何でも知っているやさしい老人というだけかもしれません。しかし、この人との出会いは、子ども達の心の奥底で生き続け、ある時急激に大きくなり、子ども達のものを見る目を、人を見る目を育ててくれることだろうと思います。

 そして、この人の本当のすごさを知ったとき、子ども達は、この人に出会えたことに対する感謝の心を持つことでしょう。

 感謝の心を持たせるとは、ものへであれ、人へであれ、その本当の価値を知らしめることだと思います。自分と、そのものや人とのかかわりの姿を教えることです。そして、感謝の究極は、そうしたかかわりを持たせてくれた何か目に見えぬ大きな力といったものへの感謝でしょう。

TOP