第53回「学び続けること」(2012.1)
2012/01/09
前回、伊能忠敬(1745~1818)について、忠敬の学問に対する姿勢から学ぶとことが多いと言う趣旨のことを述べた。昨年11月、2年ぶりに前任校の中学1年生を引率して、佐原の伊能忠敬旧宅・記念館を訪れた。旧宅は、3.11東日本大震災の被害にあい修復中であったため、内部の見学はできず、外観のみの見学であった。記念館では、平成22年6月に国宝に指定された伊能忠敬関係資料の一部が展示されていた。館内では、若い学芸員(と思われる方)が、中学生達を呼び寄せては、展示された伊能図の特色を熱心に説明していた。傍らに立って私もその説明に耳を傾けた。曰く、「伊能図は、現在の地図に比べて、南北はかなり正確なのに、東西に若干のずれがあるのはなぜだろう」、中学生の一人が「忠敬は子午線1度の正確な距離を知りたくて、測量(地図づくり)を始めたので緯度が正確なのでは?」と事前学習で得た?情報を基に反応した。学芸員は、我が意を得たとばかり中学生の発言を引き取り、伊能図の経度にずれが生じた理由の説明を続けた。そんなやりとりを傍らで聞きながら、伊能忠敬の業績を学ぶことの価値を再認識したのであった。
この旅行(前任校では、北総常南旅行と名付けている)では、「伊能忠敬と佐原の関係」について説明するのが、従前からの私の分担で合った。今年もまたその役目を仰せ付けられ、旧宅の庭で中学生を前に話をした。話の概略は、前回のエッセイで述べたこととほぼ一致する。話の最後に、江戸時代の儒学者、佐藤一斎(1772~1859)の三学戒を引用し、忠敬の業績と重ねた。
「少(わか)くして学べば、則ち壮にして為すことあり」
「壮にして学べば、則ち老いて衰えず」
「老いて学べば、則ち死して朽ちず」
忠敬は、少年時代から学問好きであった。佐原の伊能家に婿養子となってから、家業に専念し傾きかけていた伊能家を再興したばかりか、私財をなげうって地域の窮民を救済する。こうした功績が幕府の知る事となり、彼は苗字・帯刀を許された(壮にして為すことあり)。忠敬は、家業に精を出しながらも学ぶことをやめなかった。伊能家に所蔵されていた測量関係の記録に学び、地域の人々との勉強会にも参加した。50歳で家督を全て長男に譲り隠居の身となるも、幼い頃から興味を持っていた天文学を本格的に勉強するために江戸へ出る(老いて衰えず)。江戸での学問(昼夜を問わず天体観測や測量の勉強をしていたため、“推歩先生”<推歩=星の動きを測る>というあだ名で呼ばれた)とその後の地図づくりにかけた情熱により国家的偉業を成し遂げた忠敬は、今日なお多くの人々から敬愛されている(死して朽ちず)。