第18回 「量的なことと、質的なこと」 (2010.11)
2011/03/02
私の出身分野はいわゆる工学系です。大学を卒業しNTTの研究所に入って材料の研究を始めた頃、上司の言葉で印象に残る言葉がありました。それは、「自然との対話を楽しみたい」。私はこの言葉を次のように理解しました。自然は嘘をつかない、誰がどんなアプローチで取り組んでも真実は一つ、つまり得られる結果は同じ、と。険しい山や深い谷を越えて気の遠くなるような先にある自然の摂理を発見する。それは誰にも平等に開かれた宝でありこれを探すことはなんと美しくロマンチックなことだろうかと。
その自然科学の成果は人類の幸福に大きく寄与してきた、・・・はずです。自然の摂理を応用した科学技術は様々な利便性を生み出して私たちの生活を豊かにし、新しい知見は病苦の恐怖から解放してきました。私の幼少時には村に1台しかない電話で交換手に通話を申し込んでおくとしばらくして「つながったよ」と呼びに来てくれて初めて相手と話ができました。それが今では「何時でも何処でも誰とでも」です。人が一生の間に伝え得る情報をその量と距離の積で考えてみると爆発的に増えていることがわかります。コミュニケーションに限らず、生活を豊かにするモノやコトは指数関数的に増大しているといって良いでしょう。乳幼児の死亡率は劇的に減少しました。
科学技術は対象を客観的に捉え数量化して解析することに腐心し、そうすることにより価値判断の指標が明確となり発展のベクトルを加速したと言えるでしょう。それでは「こころ」はどうでしょうか。例えば、倫理学の対象や考え方は1000年前も今もあまり変わっていないような気がします。現代人の方が1000年まえの人より格段に倫理観に優れているとはとてもいえません。
これまで、人類の幸福は量的な物差しで測られてきました。従って数値が増えるように計画を立て設計して実行すれば良く、これが指数関数的な増加の原動力でした。これからは質的な物差しで測ることが求められるのではないでしょうか。これは大変難しい。そもそも「物差し」と言ったとたんそこには単一指標の量的な概念が入ってしまいます。それでもなお、子どもたちを教育する現場の教育者が質的な物差しを持つことの大切さを痛感しています。それはもはや物差しとは言わず感動や共感を呼び起こすことなのかもしれません。