TEIKAジャーナル

第29回 「人から学び、教育の本質を考える」 (2011.3)

2011/03/24

 何度読んでも心を動かされ、親として教育者として教育の本質を考えさせられる一節があります。もう20年近くにもなりますが、ある特別支援学校(当時は都立養護学校と呼称)のPTA会長 小西早苗さんが「わかれに」の題で、会報にお書きになった文章です。少し長くなりますが、春の到来への想いをはせつつ、紹介させていただきます。

 ゆきつもどりつ、とまどいながら、季節が冬から春へ移っていこうとしています。道すがら、木に咲く花が垣根の向こうに灯ったように明るんでいます。
 つい先ごろ、障害のある十八歳の親しい少女の死に出会いました。体が不自由で生きている時には、あお向けでは眠れない体型をしていましたが、通夜の床では実に安らかに手足を伸ばして、ゆっくりと休むように横たわり、とても大きく見えました。ほんのりと化粧された清らかな花のような顔がまばゆいほどの美しさでした。
 これまで障害のある少女として、本当にまだ幼い人のように錯覚していましたが、花の十八歳、どきっとするほど女らしく見えて、亡くなってしまうまで、彼女の本当の想いなど何一つ理解していなかったことに胸をつかれました。
 自己表現の手段としての言葉をもたない子どもたちの代弁者のつもりでずっとPTA活動にかかわってきましたが、果たして彼らの本当に望むところを代弁してきたかどうか。健常といわれる者の思い上がりではなかったか。理解・啓発などと言いつつ、身近な障害のある子のことすら解ったつもりが、あくまでもつもりであった事実に打ちのめされた思いがしてなりません。物言わぬ子が、日頃どういう思いで親を、先生を見ているかを考えると、少なからず恐ろしい気がします。小手先ではかわせないてごわい相手だと思います。・・・・・(後略)

 解説するまでもありません。同じように障害のある子をもつ親として、私は共感というよりは共振させられてしまいます。そして、小西さんの言うように、私たち教員は、目の前にいる子どもたちのことをどこまで分かっているのだろうか。分かったつもりで思い上がった指導をしてはいないだろうかと、深く考えさせられるのです。
 教育は、つまるところ、子どもの人間性を開花させるための自発的・主体的な営みであると考えています。その営みは、あらゆる機会と場を通した感化によって成立するものであり、中でも教員や保護者の影響力は極めて大きいと思います。子どもに生きることを求めるならば、教員や保護者自身がたくましく生きる姿勢を示さなくてはなりません。子どもは言葉による指導・説諭よりも、大人の生き方から多くを学び、共鳴し考え、実践していくのです。大人の一挙一動、態度が手本になり、感化力となっていきます。優しい一言が重みをもつこともあります。子どもの思いや願い、そしてよさをしっかりとらえ、かみくだいて易しく、分かりやすく語り、ねぎらいを添えるようにしていきましょう。 
 子どもと教育者、どちらが真の理解ができるか、分かり合えるようになるかの本質を本学の児童教育学科で学び、考え、実践を通して磨いていきましょう。 

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