TEIKAジャーナル

第93回「ハイリゲンシュタットの遺書」(2013.3)

2013/03/15

  音楽情報は人の可聴周波数を超えて録音再生が可能となり、通勤通学の車中では耳にイヤホン手にスマホという人が増えた。幾つかの美術館や博物館ではインターネットを通じた情報発信を始めている(例えば、「e国寶」http://www.emuseum.jp/)。Google Art Projectのような試みもある。一昔前、「インターネットだけで博士論文を書いたのだよ」とアイルランドの田舎に住むお爺さんが孫に語りかけるTVコマーシャルがあったが、今や芸術の分野でもこのようなことが実現可能になりつつある。

  とはいえ、本物は本物である。コンサートホールで聴く音楽は鼓膜を通してだけでなく頭蓋骨を介した音も含めて体全体で「聴く」。視覚情報も大いに影響するであろう。絵画や彫刻では「質感」をディジタルデータで表すことは大変難しい。遠ざかってみたり近寄って筆致を感じたりすることは今のところ現地に赴かなければ体験できない。上野の東京国立博物館で特別展示されている円空仏を観る機会があったが、風化した荒い木目襞の質感はその前に立ってみないと分からない。Google Art Projectではストリート・ビューの手法で美術館内を移動できる仕掛けが準備されているがやはり物足りない。

  というわけで、出張の自由時間にはできる限り本物を体験することを心がけている。日本にもサントリーホールのような立派な音楽ホールはあるが、美術館となると海外に軍配が上がる。作品と鑑賞者を仕切るものがないし、ゆったりとしたスペースにソファーもある。すばらしい環境なのだが、気に入った作品の前で行ったり来たりしているとついつい部屋の隅にいる警備員の存在が気になってしまう。開放型の展示に慣れていない私(たち)の性か? ルーブルのモナリザの前に立ったとき、「本物の前に立っている」という感慨に浸っていることに気づき愕然とした思いがある。

  さて、絵画でも音楽でも眼前の作品や演奏だけでなく、その背景・制作過程を知るとより深く鑑賞することができる。難聴という音楽家にとって致命的な障害を抱えながら多くの作品を残したという事実は、私がベートーベンの楽曲を好む理由の一つでもある。現代の高性能補聴器がベートーベンに与えられていたらもっと素晴らしい作品を残したであろうか。おそらく、否であろう。絶望的な状況はしばしば意欲的な作品を産むといわれている。1802年10月6日と10日に「ハイリゲンシュタットの遺書」を遺しているが、このころはまだ9つの交響曲のうちの2つしか完成していない。誰もが知っている第九交響曲の作曲に着手した1822年には聴力をほぼ失い筆談帳を用いていた。そのことを思い描くだけでもベートーベンの作曲家としての凄まじさを感じてしまう。3月11日の震災から2年が経つ。事実が風化しつつある中で、多くの被災地の方は過酷なハンディーを抱え絶望の淵にありながらなお前を向いて生きている。この力は何だろうか。最近ある研究会で、現生人類の特徴である「頑張る」というすさまじさを『ささやかな希望は崩れない。これが進化というものである。ロバスト性が高い。』(矢後長純、愛国学園大)という言葉で解釈されているのを聞き、妙に得心した。保育士や教諭になろうとしている悩める若者達にこのロバスト性を植え込みたいと思う。

 

     *例えば、e-国寶 http://www.emuseum.jp/

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