TEIKAジャーナル

第111回 「敗者の振る舞い」(2014.2)

2014/03/05

  厳重な戒厳下で演出されたオリンピックの閉会式の映像を見ながら30年前の夏を思い出していた。研修で家族と共にロサンゼルスに降り立ったのはオリンピックの開会式の前々日だったと思う。一夜明けて宿の前が騒々しいので表に出てみると、聖火リレーが走り去った後であった。火が消えたトーチを持ってみたら以外と重いのでビックリしたことをおぼえている。選手村になった学生寮が着任先の大学キャンパス内にあったので、セキュリティーが厳しく苦労した。パスポートは信用してもらえず、招聘のレターを見せても写真がない。写真つきの身分証はないかと言うので、日本の運転免許証を見せたらOKという。車自体もそうであったが、IDシステムも日本製の信頼性は高かった。繰り返すうちに守衛さんに覚えられ、閉会式の頃には顔パスで入構できるようになった。それにしても、ソチの参観者パスポートの発行など、スポーツの大会では初めてのことではないだろうか。

  さて、メダルの数は長野五輪以来らしい。一方で期待に添えずに多くの選手が涙をのんだ。しかし、多くの人々の記憶に残ったのはその涙ではなかったろうか。フィギュアスケートの浅田選手は金メダルよりも大きな感動をもたらした。4回転ジャンプで転倒してフェンスに激突した米国の選手は再び立ち上がり、演技を続けてスタンディングオベイションで迎えられた。何が私たちを感動させるのだろうか。結果がもたらす感動と過程が与える感動は質が違うのかもしれない。結果はある瞬間を切り取って評価されるが、過程の評価には有限の時間がかかる。私たちは努力することが大切で結果はついてくると教えられて育ってきた。しかし、結果がついてこないことも現実には多い。私たちの学生の多くは世の中の様々な競争では「表彰台」に届かないかもしれない。だからこそ教員には過程を評価する目が求められると思う。期末試験を実施して一定のレベルに達したら合格という評価体系から、教授前後の小さな差分・プロセスで評価する時期に来ているのではないかと思う。そのような評価体系なら全ての学生に固有の達成感・感動が生まれる。

  ブータンでは国民総生産量ではなく国民総幸福量が国政の指標だそうである。幸福の量が計れるなら感動の量も計れるかも知れない。地震や津波、原発で被災された東北の人びとの悲嘆の量を集めることができたらいかほどになるだろうか。何事も定量化して数値で表したくなるのが工学者の性(さが)であるが、計れないだろう。「いのち」の重さが無限であるように。犠牲者の数と言った途端にそこで時間が切り取られてしまい、それぞれの人たちが生きてきた「特別な生」という過程が失われてしまう。もうすぐ3.11が巡ってくる。

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