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第104回 単純・無邪気(2015.10.05)

教授 大沢 裕

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連日、ヨーロッパ各国に中東などから大勢の移民・難民が押し寄せていると、ニュースになっている。

中でも、ギリシャに向けトルコから地中海を渡る途中で死亡し、海岸に遺体が漂着したシリア難民男児の映像は、EUのみならず世界中に大きな衝撃を与えた。男の子の名はアラン・クルディちゃん、3歳だったという。この映像が引き金になり、こうした悲惨な事故を2度と起こして欲しくないと世界中の人々が強く思ったのは間違いない。また、難民受入問題で足並みの揃わなかった国々が、この事件をきっかけとして難民受入を次第に表明しつつあるのは、実に、亡くなったのが幼い子どもであったからこそであろう。

不謹慎だと思われてしまうかもしれないが、私はこの事故の報に接し、1人の子どもの死が、どうしてかくもこれほど世界にインパクトを与え、世界を動かしたのかを考えて見たくなった。

そこには、単に幼い子どもがことのほか「憐れみ」の対象だから、ということだけでは片付けられない、何かがあるように思えてならない。子どもという存在には、独自の人を引きつける力、いわば子どもらしさがあるからではないか。

確かに、何かある種の力の未発達、未熟さを、子どもらしさとして捉える人も多くいるだろう。しかし何も未熟は子どもに限ったものではない。未熟な大人だってたくさんいることは周知の通りである。

子どもらしさ、それは子どもにしか見られない特徴だろう。私はそれを子どもの心のあり方と捉えたい。

18世紀から19世紀にかけて、スイスで活躍したJ.H.ペスタロッチーの教育論は著名だ。彼は、子どもの心には「単純・無邪気」の特徴があると主張した。確かに、単純・無邪気は子どもの心の代名詞で、育てなくても自然に子どもに備わっている、いわば生まれながらの本能的なものだと言えるだろう。

しかし驚くべきことに、ペスタロッチーは、こうした単純・無邪気を教育の最終目標に掲げたのである。彼はなぜ、これらを教育の出発点だけではなく、目標にしたのだろうか。彼が敢えてこう主張したことには、少し深い意味があるように思われる。

ヒントになるのは、聖書の言葉、「心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう」だろうか。イエス・キリストもまた信仰の立場から、乳児の純粋さを、大人にも求めたのだと考えられる。

日頃から私たちは、単純、無邪気という言葉を使っている。単純という言葉で思いつくのは、「あいつは単純だな」というとき。そのような場合、単純は、だまされやすい性格など、あまり良い意味では使われていないことが多い。

それでは無邪気の方はどうだろうか。無邪気は良い意味で使うし、悪意に満ちた言葉として使われるときもある。前者は、天真爛漫と言い換えれば良いのだろうか。後者は、やはり、だまされやすいということであろうか。

それではペスタロッチーの場合は、どのような意味として、この二つの言葉を使い分けたのだろうか。端的に言えば、単純とは、心に混じりけがないこと、社会の悪に染まっていない心ということであろう。無邪気とは、その言葉の通り、邪心のないことであり、よこしまな考えを持たず、罪をもたないことである。

経験から言ってわかることは、人間の単純・無邪気な心は、成長するに従って徐々に失われていくことである。大人社会の悪に、多かれ少なかれ、人々は巻き込まれていくのである。それは結果的には、完全無欠の人、完璧な善人は、この世にいないということをも意味する。

現在の社会の大半は、F.テンニースの言ったような利益社会である。また、T.ホッブスが主張した「万人の万人に対する戦い」の社会であり、打算・計算に満ちた、エゴイズムの社会である。

大変残念なことであるが、弱肉強食の社会がこの世界の大部分を覆っている、と言っても過言ではない。そうした社会の最中にあって、自分を守ることに精一杯で力の弱い人がいたとしても、それはそれで責められるべきではないだろう。多くの人は生きるのに懸命で、余力を十分に残し、生活をじっくり楽しむ人の方が、実は少数派なのかもしれない。

競争社会は、他者よりも優位に立つことによってのみ、自己を確実に防衛できる仕組みになっている。だから、他者よりぬきんでようとする人が後を絶たないわけである。

もちろんスポーツに代表されるように、競争そのものが悪なのではない。一定のルールの中でその人の順位を決めることは、良い意味では、個人の意欲を高めることにもつながる。ただ競争を排除すれば良いという単純な問題ではないことは明らかである。

しかし他人を蹴落としてまで、つまり他者を自分の目的の手段としてまで利用し尽くそうとする人が出てくれば、もちろんそこに、道徳的な問題が発生する。I.カントも言ったように、他者の人格は手段として利用されてはならないのである。

一方、家庭・保育所・幼稚園・学校は、そうした社会ではない。これらの社会は、むしろ打算に満ちた世界から保護され、隔離された空間であるはずである。かえって人間を、集団であれ単独であれ、エゴイズムから開放する役割を果さなければならない。

もちろんエゴイズムを脱するためには、人間自身が自らのエゴイズムを捨て去る、そういう機会が与えられねばならない。自らの汚れた心を冷静に見つめ、そうした自分で本当に良いのか、それでかまわないのかと、自問自答する場面が必要である。

人間性の本質は、打算の心にあるのではない。むしろ打算を超えた先の世界にあるのである。それを、ペスタロッチーは単純・無邪気という言葉で表現した。単純・無邪気の心が必ずや、完成された大人の中で、形を変えて再興する、そうペスタロッチーは願わざるを得なかったのである。それは道徳性と言ってもよいものである。

もちろん先にも述べたように、完全な善人などあり得ないのだから、もしそうした人間像かあるとしたら、それは究極の理想の姿として考えるほかはない。それを完全に得ることはできないが、実際の人間は、そこへ向かって絶えず努力しつつ生活するものなのだろう。

子どもたちの純粋さに触れ合って、大人が感銘を受けるとき、それは大人にとっても、自らを意識的に成長させる大事な瞬間である。それは、忘れていたものを思い起こすことだと言っても良いかもしれない。この意味で、子どもたちに最も近い存在である親や保育者・教育者は、自分を高めるチャンスを豊富に持っていると言えるだろう。

子どもたちを花に、自らの施設を園に見立て、世界で初めて幼稚園を設立したF.W.A.フレーベルは、「さあ来たれ、われわれは子どもたちに生きようではないか」と宣言した。彼は、単純に保育者が子どもに奉仕する存在であるべきだと言っただけではない。子どもと接することが、大人の成長の糧にもなるということを、示したかったのだと考えられる。

「子どもたちから学ぶ」ということを、教育者たちは、しばしば標語のように喜ばしく語る。確かにそれは間違いではないだろう。しかしそれはむしろ、「子どもたちに自然に感化されて心が素直になる」という言い方の方が、実態に近いのではないだろうか。しかも子どもの年齢が低ければ低いほど、そのチャンスは豊富に用意されていると考えられる。自分が成長できる機会がいつでもどこでも豊かに転がっている。誠に、保育者の眼前には、そのような素晴らしい世界が広がっているのである。

ところで、難民受け入れを検討している各国では、受入反対を表明したデモも、連日繰り広げられていると聞く。もちろん個々の国にはそれぞれ事情があり、解決困難な課題が山積しているのだろう。しかし難民受け入れに、ただ頑迷に反対している大人たちには、改めて、子どもの純粋さを思い起こしてから、自分の進むべき方向を決め、行動を起こして欲しいものである。

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