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第64回「「学び」の危機?」(2012.5)

教授 有村久春

教授 有村久春

  去る2月下旬のこと、ある小学校の研究発表会を参観する機会がありました。

基礎基本を身に付けることをテーマにした国語と算数の授業公開です。国語では伝え合う力を重視した研究で、話すこと・聞くことの実践的な場面が多く見られました。また、算数では算数的活動の楽しさと称して、実物を操作するなどの体験的な学びをしていました。

  具体的には、テレビレポーターのまねをして自分たちで取材したことを発表したり、アナウンサーになって学級のニュースを話したりしているのです。小グループで、話し手・聞き手に分かれて伝え合う学習風景です。算数を勉強している教室では、鉛筆や机の長さを測る(2年生)、色紙を使って同じ面積になる形を作る(4年生)などの作業をともなった学びをしています。そして、その学びの結果をグループごとに発表し合い、一人一人の作業の体験や感想を話し合っているのです。

  公開の研究授業ですから、多くの保護者も参観しています。たまたま、廊下で保護者の方々が<ひそひそ話>をしているのを耳にしてしまいました(やや罪悪感を感じますが・・)。

  その一部を控えめに紹介しましょう。「そうね、教えることをちゃんと教えてくれればいいのに。子どもたちが勝手に話しているみたい・・」、「あんな作業ばかりしていて、肝心の勉強が身に付くのかしら?」、「うちの子は、見当違いの折り紙をしていたわ」などの言葉です。保護者の方々目には、自分たちが受けた過去の授業と異なる光景がみられたのでしょう。新しい漢字を覚えたり文章を繰り返し読んだりする、練習問題を解いたり公式を覚えたりする、黒板に書いてあることを黙してノートに写す、などの勉強が小学校時代の学習として思い出されていたのでしょうか。

  何をもって授業とするか、学習とするのか、学力とするのか、教育の専門的な知見からみても多義多論のあるところです。確かに小学校時代は、勉強のおもしろさや楽しさが味わえないことには学習意欲が湧かないものです。それと同時に、読・書・算の基礎基本が個々の子どもに身に付いていないと、自分の考えや理解した事実などを表現することもできないのです。

  この二つのバランスの「調和」と「止揚(アウフヘーベン)」のあり様は、日々の授業の一部分を参観しただけでは理解できにくいところがあります。授業をする先生もこのことをうまく表出することが困難なこともあると思います。参観されていた保護者の皆さんには、一見して授業が<遊び>と思われる部分があったのでしょう。おわりのように、<遊び>も重要な学習であり子どもの成長に不可欠なものです。

  いわゆる「学力」は、テストなどで測れる力だけを意味しないものです。むしろ、子ども自身が自らの学びを創り上げていく力(形成学力)がその本質をなすものです。ですから、すべての子どもには自らの学習を自ら構成し、それらを自ら統合する力量が備わっていることを、教師は勿論のこと保護者も信頼することが重要です。子どもが<自学自考>する事実が、子どもの真の学びの姿なのではないでしょうか。



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