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第80回「いじめ」考(2012.11)

教授 有村 久春

教授 有村 久春

  このところいじめの問題がマスコミ等で取り上げられ、教育の仕事にかかわる者の一人としてこころを痛めています。

  これまでにも、「いじめ」によって(?)子どもが自殺に至る事態が何度か起きています。わたしの記憶にある象徴的な例としては、昭和61年中野区で、平成6年西尾市で、平成18年筑前町と瑞浪市のケース。いずれも中2の生徒です。これらの遺書(メモ)を読むと、計り知れないその子のこころの叫びが聞こえてきます。

  どこか初期の段階で、その子の心身の辛さに応じることができれば・・と悔やまれるところです。人間は、悩み苦しみ思うようにならないとき、自らの思考や行動が固まってしまうことがあります。どうしてよいかわからなくなってしまうのです。

ときには、自分を見失ってしまうこともあります。先が見えないのです。そして、それまでできていたこともできなくなってしまい、絶望感に襲われます。

  子どもがこのような状態にあるとき、教師や親など周りの者は「誰かに相談すればいい・・」と思うかも知れません。しかし、その子どもにはその動きができないのではないでしょうか。こころも頭も体も凝り固まっていますから、動けないのです。友達にも先生にも親にも、「あのー」(助けてほしい)の一声が発せられないのです。

  ましては、誰かのところにその思いや足を向けることなど、とうていできないのであろうと思うのです。その様子を察する周りの者が、このように考えたら?こうではないの?と問い掛けるチャンスがあっても、それに振り向くことができないのです。その子の精神がその信号を発していても、それをその子自身が意識することは難しいものと思われます。自分の内面に何が起こっているのか、その子自身にも<わからない>のではないかと思うのです。

  精神分析のフロイトの作業仮説に学ぶと、その子の「イド」と「自我」、「超自我」のバランスがその子の心身においてうまく機能しなくなっているのです。とくに、小学校高学年から中学生のころは、子どもの成長発達が思春期そのものです。

  その時期特有の性のエネルギーが、まさに無意識のうちにその子のこころを冷やしたり異常に熱くしたりするのです。気づいたときには、イドが自我を突き破ってしまっているのでしょう。それまでに培ってきた超自我さえも、それを抑制できなくなっています。そして、やるせない思いにしたり、当り散らしたりする衝動にも搔き立てたりすることがあります。

  大人の意識のレベルで考えると、その子どもの心身のあり様に、「どうして?」「なぜ?」の問いをしたくなるのですが・・。その子にも<わからない>のに・・。その子の無意識の中に、その問いの真相があるのではないでしょうか。



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