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第98回 ボクの居場所は? (2013.8)

教授 有村 久春

教授 有村 久春

  ボクの存在は、今の大学生たちが学校教育を受ける以前から、ある意味で世間の注目を浴びることもしばしばであった。しかし、最近、ボクは居心地の悪さを感じている。

  ボクの名前が世間的によく登場するようになってから、15年ぐらいたつであろうか。いよいよボクの本領発揮の場面と思いきや、どうも風向きがちがう。

  ある学校の校長先生が書かれた学校経営方針なるお堅い文書には、ボクの名前は付けたし程度に扱われているように思う。とくに、中学校や高等学校では一文字も見当たらないこともある。ちょっと前までは、あんなに登場していたのに。校長先生の教育観にもちょっと嫌気がさしてもいる。時代に流れに翻弄され過ぎではないでしょうか?と。

  ボクはその当時、時代の申し子のように言われ、大もてしてきた。どこの学校でも、ボクの名前が呼ばれない日々はなかった。著名な大学の先生方の研究会でも、ボクの存在意義が高々に論じられ、ボクの活用方法もいくつも試行された。

  その度に、ボクの内心は当惑し、ゆらぎさえも感じたものだ。あまりの嬉しさに、笑いが止まらない時もあった。一方で、これでいいのかな?と、そのストレスに悩むときもあった。世間で言う「人気あっての苦しさ」なのだろうと。複雑な気持になったことがある。ある先生からは、子どもたちに接する時間が減って淋しいよ、君の一人勝ちだな、などと言われたりもした。

  正直言うと、学校の先生方にちやほやされ過ぎた感じがするんだ。いまでは、ボクの本当の気持がボクにも分らなくなっているかも知れない。なにせ、立て直そうと思っているうちに、世間の学力主義や競争主義の波に飲み込まれてしまっているのだから・・。

  カッコよく聞こえるが、ボクの存在は本音で言って子どもたちの将来に役立つことなんだ。いまの大学生たちをみていると、とくにそう思う。彼らは幼少期から、基礎基本を身に付けろ、個性を磨け、創造性を発揮せよ、自分で考え学べなどと、先生方や親からうるさく言われる。このうるささに、大人も責任をもつべきだ。子どもたちだけを窮屈にしてはならない。そこに、ボクの存在を価値づけたはずなのに・・。

  未来に夢や希望を描く子どもたちよ、国語や数学、音楽などでもっと考えたいこと、試したいことがあるだろう。そんなとき、ボクを君自身のために使ってほしい。

  ボクの名前は、総合的な学習の時間。どの小・中学校でも年間で100~120時間程度あるのだから、使い甲斐もあり、子どもたちの生き方に役立てると思うのだが・・。もういまになっては、使い勝手もよくないし、時代の冷蔵庫に収まらない賞味期限切れの商品になってしまったのか・・。それならそれでいいと、ボクは感じてもいる。ただ、ちょっと悔しいから、<ボクの真意が実現する時が本物の教育である>とも言いたい。



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