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第112回「錯覚からの脱却、確かな眼」(2014.3)

学科長・教授 小池 和男

学科長・教授 小池 和男

  子どもをとらえるということは難しいことです。教えることに夢中になり、子どもが真に理解しているかどうかの見極めをしないまま突き進んでいる授業をよく見かけます。以下の文章は、私が小学校の教師になって5年目の授業実践から学んだことがらです。子どもたちから学ぶことの大切さを実感する契機となった授業です。

 

1 子どもが活動しているという錯覚

  子どもの発言内容や表情などから、個々の子どもの学習状況を診断することは一つの方法です。しかし、その状況を的確にとらえずに授業を展開してしまい、安易におおよその子どもたちが理解していそうだと考えることも多いようです。

  活発な発言が続くと(せいぜい7~8名の子どもたちの場合が多い)、つい、学級のほとんどの子どもたちが活動しているという錯覚を起こしがちです。このような時は必ずと言ってよいほど、授業は失敗に終わってしまいます。うわべだけの授業になってしまい、子どもの心にしみる授業にはなっていないのです。

  子どもたちの考え方は一様ではなく実に多様であり、個性的です。個性的だからこそ、一人一人の学習状況を的確にとらえようとする営みが重要なのです。錯覚は、一人一人の子どもに眼を向けていない表れとも言えるのではないでしょうか。

2 錯覚ではない確かな眼

  発言する子どもについては、その発言内容から子どもの学習状況の一面をとらえることができます。ところが、発言等で自己を表出してこない子どももいるはずです。発言力のある子どもに押しまくられて聞くだけで終わっている子どもたちです。このような子どもたちは、どのように考え、思いをめぐらしているのでしょうか。学習参加をしていないと診断していいのでしょうか。おおよそ参加をしているだろうとか、参加をしていないだろうという診断ではなく、新たな手法による確かな眼をもって、そうした子どもたちをとらえていくことが大切だと思うのです。

3 発言しない子どもの主張

  発言はしなくても、友達の発言に耳を傾けながら自分の考えを思いめぐらしている子どもは多いものです。ここで紹介するS君もその一人です。第5学年の社会科、「これからの水産業」について、沿岸漁業派と遠洋漁業派とに分かれて討論していった時間に、S君は一度も発言しませんでした。しかし、自分の主張をノートに次のように記述していたのです。

・・・(前略)ぼくは、人々に外国の魚の味をみてもらいたいと思う。外国の領地には行かないようにしたい。トラブルなどを起こしたくないと思う。魚を釣りすぎてもいけないし、ちょうどよく釣ってみたいと思う。ぼくは、一本釣りもするが、網やもりも使います。あと、そうなんなどしないようにげんじゅうに浮き袋や信号や無線き、救命ボートなどを置いておくと思う。そういうものがうまくできないときは、もしかの時は泳いでまでも助かりたいと思う。・・・(中略)日本領地じゃない所に漁に行く時は、無線でその国の領地に連絡して漁をしていいかどうか連絡する。ぜったい、一週間に一回は家に連絡するようにしたい。ぼくは漁をする前に普通の船で漁をする練習をして、腕がさえるようになったら本当の漁に出る。・・・(後略)

  学級の男子の中では比較的気の弱いS君です。討論の時には遠洋漁業派についた一人で、遠洋漁業は生命の危険があるという友達の発言を聴きながら、S君なりに考えをめぐらしていたと推察することができます。S君は、遠洋漁業を大事にしなくてはいけないと主張しながら具体的な方法を付加しています。記述内容を見る限りにおいては、S君らしいというか、かなり慎重な部分をとらえることができます。それにも増して、S君の記述で一貫しているものは、人間の生命に対する尊重的な考えや態度であり、情感的な心の表出です。

  S君がこの討論の時間に真剣に考え、思いをめぐらしていることを、ノートの記述によって知ることができました。同様に、ノート記述の内容から、S君のもつ個性的な考えや思い、追究意欲もとらえることができたのです。

  授業は、教師の発問と子どもの発言のやり取りだけでは成立しません。教材はもちろんですが、子どもたちがそれぞれ自分の可能性を発揮できるような具体的な体験や活動を取り入れた多様な学習活動を工夫することが大切です。その中で子どものよさを発見し、伸長していくのが教師の役割の一つと言えましょう。



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