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第133回「「無知の無恥」から「無知の"恥"」へ」(2015.3)

教授 河崎 雅人

教授 河崎 雅人

  先日、近所の善福寺公園に行ってきました。

  ボート遊びや砂遊びをしている子どもたち。少し早い花見をしている人たち。

  春を待ちかねたように、思い思いの方法で、春の到来を楽しんでいました。

  日本には四季があり、季節ごとにさまざまな表情をみせます。

  なかでも、春は、卒業式、入学式、入社式など、新しい始まりの季節です。

  小学校には、初めて学校という場所で勉強する一年生が入学してきます。

  一年生は見ることも聞くことも新しく、様々な事柄に興味をもって取り組みます。

  小学生や中学生、高校生は、まだまだ先生や保護者から習うことが多く、知らないことは恥ずかしいことではありません。

  先生たちも、分からなかったら質問しなさいといいます。

  これは、まだ、教えてもらう立場にあるからで、分からないことがあり、質問することは、恥ずかしいことではありません。

  ところが、この頃、社会的に地位のある人や指導的な立場にある人が、「知りませんでした。だから、私には責任がありません。」と臆面もなく発言し、知らないことを責任逃れにしているような風潮が見られます。

  大学生の中にも、「高校のとき、文系だったから数学はあまり習ってないので分かりません」「世界史は習っていないので分かりません」などと言う人がいます。

  知らないことがあると気付けば、自分で学ぶ人が大人だと思います。

  ソクラテスの言葉に「無知の知」という有名な言葉があります。

  英語では、「I know nothing except the fact of my ignorance」。

  直訳すれば、「私が無知であるという事実を除いて、私は何もしらない」という意味になるのでしょうか。

  「知らないということを知っている」という意味で、「I know that I know nothing」や「I know one thing that I know nothing」とするものもあります。

  この言葉は、無知を誉めているわけでは決してありません。

  無知だからこそ学ばなくてはいけないこと、学び続けることの大切なことを伝えようとしている言葉だと思います。

  無知であることを恥だと思わないこと(無恥)は問題です。

  まず、「無知」を恥じる、「無知の恥」という考えを持ちましょう。

  そして、さらに、「無知の恥」を「無知の知」へと昇華させることできるよう、学び続けることが必要です。

 



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