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第157回「過去・現在・未来①」(2016.3)

講師  平野 英史

講師  平野 英史

  今回のエッセイは、自分の過去のことを綴ります。その理由は、自分自身が高校生や大学生の頃に進路を決めるために様々な生き方を知りたいと考えたことがあったからです。わたしは、大学で図工を教えています。それは絵画や彫刻、デザインや工芸、芸術学や美学ではなく図工です。このことを自分の職業としようと決めるまでにはそれなりに長い時間が必要でした。その道のりを、年代とそのころに好きだった(または頑張った)ことがらと一緒に紹介することで、これまでの自分の過去を披露したいと思います。

生まれてから幼稚園に通うころまでは、親から買い与えられた積み木(レゴやダイヤブロック)と粘土(油ねん土)でよく遊んでいました。その当時に流行ったテレビ番組のヒーローものの変身グッズや、アニメーションに登場したロボットの玩具ではあまり遊ばなかったようです。親曰く、独り言を延々としながらつくる日々だったようです。

  小学校の図工には、とても思い出が多いです。3年生から4年生で受け持っていただいた担任の先生(女性で30歳代)が図工を専門とする教師であり、さらに、校長先生(当時は珍しい女性)も図工を専門とする人だったからです。そのため、図工の授業で人が入れる大きな木造の家をつくったり、授業を抜け出て校長室で絵を描いたりしたことなどもありました。それ以外にも、プラモデルが全盛の時代でしたので、バンダイのガンダム、田宮模型の戦車や戦艦・歩兵などのモデル、組み立ててから走らせるラジコンやミニ四駆などを、手あたり次第につくりまくりました。ゲームはあまり興味がありませんでした。

  中学校では、図工が美術科と技術科とに分かれてしまい、思いっきり自由につくる環境がなくなったと思ったことを覚えています。とにかく、学校のカリキュラムがつまらなくなり、よく保健室や学校の屋上で授業をキャンセルしていました。つくることはしなくなったこの当時は、人生の中での暗黒の時代だと思っています。

  高校生になるとバイクとの出会いがあり、乗ることよりも改造することに一生懸命になりました。この経験は小学校時代の図工とかさなり、金属の溶接や切削、強化プラスチックの成型や塗装など色々な技術を覚えました。昼夜問わず活動し、とても楽しかったことを記憶しています。その一方で、学校での美術の時間も楽しくなりました。美術科を担当した先生が美術大学を出た人(女性50歳代)で、本格的に人間の表現活動についての手ほどきを受けたような気がします。そして、この先生から美術を職業にしたらどうかというアドバイスをいただき、美術大学受験専門の予備校に行くように説得(当時は卒業後は働くつもりだった)されました。

その後、大学には無事に合格しましたが、自分の考えと大学の方向性が合わずに、一年間はあまり大学に通わず、家でバイクを弄る日々が続き、さらにはネパールに旅行に行くなど、同級生の中では退学したとの噂まで出る始末でした。そのため、気が付いてみると1年生では3単位(日本国憲法とデザインの授業だけ)しかとれないような有様でした。しかし、このような気ままな当時にも、将来への漠然とした不安がいつも頭の片隅にあり、もどかしい毎日だったように思います。

  この後は、大学卒業に5年かかり、大学院(修士課程)に進学・修了し、ものづくりにかかわる会社(アパレルのデザイン事務所・造園業・金属加工の工場など)を転々としながら、大学院(修士課程と博士課程)に再入学することを経て、現在のような職に就くことになります。今回のエッセイは長くなりましたので、ここまでにします。大学生時代の後半から現在までは、次回に書きたいと思います。



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