TEIKAジャーナル

第11回 「かわいい子には旅をさせよ」 (2010.8)

2011/02/12

 最近、このことわざが再び気になり出した。
 確か、このことわざと初めて出会ったのは、小学校四年生の国語の時間だったと思う。
 そのとき、このことわざが、なぜかしっくりこなかった。もちろん、担任の先生は、その意味するところを説明してくれた。それでも、なぜか腑に落ちなかった。「かわいい子」と「旅をさせよ」ということが、結びつけられなかったのである。
 「子には旅をさせよ」ならわかる。なぜ、「かわいい子」なのかと、子どもながらに考えたのである。その裏には、すべての親は自分の子を「かわいい」と思っているはずであるという確信があったからだ。だから、なぜ、敢えて「かわいい」という形容詞をつけるのかと、悩んだのである。
 そこで、この「かわいい」とは、「愛する」という意味ではなく、外形的な「かわいらしさ」という意味ではないかと考えてみた。しかし、様子の「かわいい子」だけと限定して、「旅をさせよ」というのかとますますわからなくなった。
 担任の先生が説明しくれたこのことわざの意味を本当に理解できたのかは、いつのころだったかわからない。
 しかし、もう一度、このことわざが気になりだした時期がある。
 それは、小学校の教師となって何年かたち、親と子の様々な関係が見え出したころである。このことわざが、形を変えて、現代の親子で実践されていることに気がついたのである。ただ、「旅」のとらえ方が、昔とは変わっていた。
 このことわざが作られた当時の「旅」は、つらく苦しいものだった。電車も車もない時代である。まず、体力がなければできないものであった。せいぜい、交通機関を使うといっても、陸路を行くには馬に乗るか、駕籠に乗るしかない。恐らく、子どもを馬や駕籠に乗せて旅をさせよ、ということではあるまい。まず、金がかかる。親にそんなゆとりもなかったろうし、そんな要求をこのことわざはしていない。ただひたすら歩く旅を考えていたはずである。だから、旅をするには、まず、体力がなくてはならない。さらに、途中、治安が悪い。追いはぎや山賊にいつ出会うかわからない。命の危険を孕んでいる。それを乗り越え、自らを守る術を学ばねばならない。また、昔旅をする人の餞の言葉に使われた「水が変わるから気をつけて」ということもある。これは、実際に飲む「水」に限らない。その土地土地の風俗習慣も変わることをも意味していたろう。旅人は、旅の途中で、そうした土地土地の風俗習慣を理解し、それに合わせなくてはならない。
 かほどに、「旅」は大変なものであった。だからこそ、先人は、子どもに「旅」をさせよ、と言ったのである。「旅」は、これから大人になって活躍する子どもにとっての、正に人生修行の場であり、生きる術を学ぶことのできる場であったのである。
 ところが、とらえ方が変わった「旅」とは、例えば、「旅」が「塾」に代える変わり方である。そのとき、旅に出る子どもへの餞の言葉は、「今は遊びたいだろうけど、とにかく勉強しろ。苦しくても、我慢して勉強しろ。そうすれば、いい中学校に入れるぞ。やりたいこともあるだろうけど我慢して勉強しろ。そうしたら、あとは人生、楽に過ごせるぞ。」となる。
 先人の残したことわざの「旅」で、子どもたちに学ばせようとしたものとあまりにもかけ離れている。
 現代の「旅」は、今苦労しておけば、後は楽に暮らせることを保証しようとするものである。先人の「旅」は、将来、子どもたちが出会う今よりも厳しい苦難に、一人で立ち向かい、それを乗り越え、自分が望む道を歩み続けることができるように、苦難を乗り越える知恵と勇気と方法を身につけさせるためのものである。だから、発想が百八十度違う。
 この百八十度違う発想は、「旅」を見守り続ける親の態度に根本的な違いを生み出す。
 将来楽に暮らせるための「旅」を要求する親の心には、かわいい子どもの「旅」する姿を見て、「かわいそう」という思いが去来する。さらに、「すまないね」という気持ちが起こる。自分の今までの人生を振り返って、今子どもに課している「旅」が、本当に子どもを幸せにするものであるとの確信が持てない。自分の頃以上に変化の激しくなる世の中だということが見えているからだ。
 しかし、これからの人生での生きる術を学ぶ場としての「旅」に出させるとき、先人の親たちは確固とした信念があった。これから人生で出会うことは、この「旅」以上のものなんだぞ。それを乗り越えられる知恵と勇気と方法の基礎をつけておくことこそ、親の勤めだと。
 現代と先人との「旅」に出した時の子どもへの愛情のかけ方(今時の言葉を使えば「支援」)も違ってくる。
 先人は、子どもをただただ見守り、「俺が躓いたとろで、躓いている。よかった。それを乗り越える知恵を学べるぞ」と思う。しかし、現代の親が持つ、「旅」する子どもに対する「かわいそう」と「すまないね」といった感情は、別の愛情表現を子どもに示すことを自らに欲求してしまう。それは、「こんなに頑張っていてくれるんだから、他のことは少々我慢しよう」と。しかし、この我慢する「少々」のことの中にこそ、先人の「旅」で学ばせようとしたものの多くがいかに含まれていることか。さらに、ものを与えるというものによる愛情表現を自らに課してしまう。
 この親の姿勢は、親に対する子の姿勢にも影響を与えるであろうことは想像に難くない。
 今一度、先人が後生の人に伝えようと、このことわざに込めた子育ての知恵をじっくり思ってみる必要があろう。子を思う親心は、今も昔も変わらないはずだから。

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