第113回「教師の資質・力量とは」(2014.3)
2014/03/26
平成25年度から教職課程をもつ全国の四年制大学で、教職実践演習の授業が開始された。教職実践演習は、教職を目指す学生にとって、大学四年間の学びの総まとめであり、教師になるための必修科目である。この授業を担当するにあたり、改めて、これから教師になる人に何を学んでおいてほしいかを考え、授業でも学生とそのことを語り合ってきた。その授業を通して、学生に語りかけてきた話の根底でいつも考えていたことをまとめてみる。
子ども達は、この世に生まれた瞬間から、自分の生を受けた社会はどんな社会なのだろうかと懸命に探り出す。そうした能力が備わっていることを、これまでの教育学や心理学の研究知見はわれわれに教えてくれている。
しかし、長い間、この社会に生きてきた者にとっては、子ども達が懸命に探ろうとしている社会を、ともするとあたりまえのものとして受け取っている。
子ども達が社会を探る手探りは、成長のどの段階にもある。
幼稚園や保育所に入ったときも、小学校に入ったときも続いている。
幼稚園、保育所、小学校に入ったとき、「ここではこうするのです」という先生の言葉を聞いてきた。それは、先生が直接語りかける言葉としてだけでなく、先生の表情や行為からも感じ取ってきた。
そのとき、多かれ少なかれ葛藤があったはずである。
「外でもっと遊んでいたいのにお部屋に入るの?」「雨に濡れながら、雨と一緒に遊びたいのに?」に始まり、「国語より体育続けていたいのに」「もっとみんなと歌っていたいのに」といった、そんな自分の思いと、先生の語る「こうするのです」とに葛藤があったはずである。
しかし、大人になるにつれ、自分のしたいことと先生が語ったことに、どのように折り合いをつけてきたかは忘れてしまっていることが多い。
教育とは、子ども達が、われわれの社会へ参入するときの葛藤に耳を傾けることだと思う。だとすれば、教師は自らの欲求を子どもに向ける前に、子ども達の葛藤に耳を傾け、その葛藤に共感する心をもつ存在だと思う。言い換えれば、教師としての自分が子どもに求めることを子どもの心で見つめ直すことのできる人である。そして、先生の語る「こうするのです」と子どもの頃の自分の思いの間に生じた葛藤を思い出してみようとする人でなければならないと思う。
そんな過去の自分を思い起こすとき、先生のいる社会(保育所・幼稚園・小学校)に懸命に参入しようとしていた自分が愛おしくなるだろう。それは、目の前の子どもへの愛へと変わっていく大事な思いである。
それは、過去の自分への郷愁でも感傷でもなく、また、単に「かいらしい」と思う感情よりずっと深い思いだと思う。それは、自分と一緒に社会を創っていこうとする人であることを信じ、自分がいなくなった後の社会を創っていってくれる人であることを信じることだからである。
人の心の成長は、社会の変化のスピードと同じではない。教師とは、子ども自身が社会に参入しようとする過程をしっかりと見つめ、子どもが葛藤を乗り越える手助けを、子どもの葛藤への共感をもって手助けする存在なのだと思う。